「子どもって…不自由?」と問われたら、どう思いますか?
『え、”子どもの発想は自由の象徴”っていうじゃない…?』
それとも
『たしかに、普段から学校に習い事にと追われて不自由そう』
なんて思いますか?
先日のワークショップの振り返りで、あるスタッフから出たことばでした。
彼の言葉を聞いて、子ども(小学校2年生以上くらいから?)によく言われる「せんせい、これつかってもいいですか?」を思い出しました。
あらかじめ用意されている備品や素材を手に取って、確認する言葉。
私はこの中に不自由さを感じていたんです。
「不自由そう・その1:大人=親(または親族)か先生しかない、という感覚」
メグロアソビ冒険隊のスタッフは、自分たちのことを、『今までやったことない遊びを大人や子どもに提案して、一緒に遊ぶ人』という認識。興味があったら私たちの話を聞いてくれればいい(むしろ、どうしたら興味を持ってもらえるか、に燃えるタイプがそろってる)。 始終おとなしく人の話を聞いて、おとなしく従わなくってもいい。先生じゃないから。「その遊びじゃなくて、こういうのがいい」って言ってもらっても全然かまわない。
先生じゃない大人もいる、という世界を持っている子どもってどのくらいいるんだろう。
「不自由そう・その2:自分の行動が正しいかがわからない感覚」
始めに「ここにあるもの、自由に使っていいからね」と言っても「せんせい、これつかってもいいですか?」とたずねてくれる。丁寧だなあ、お行儀がいいんだなあと思いながらも、自分の行動が正しいかどうかを事前に確認しなければならないのが日常なんだな、とても大変なことだろうと感じます。
大人と子ども、一緒にワークショップをすると、自由気ままにふるまうのは大人の参加者の方かも。
大人は「このぐらい道をはみ出たって平気」「これやっちゃおう、何でもやっていいんでしょ」みたいな境界線を持ってて、それに結構自信があるみたい(過信しすぎてたまに他の人と衝突しちゃうこともあるけれど)。 だから堂々と自由気ままになれる。
子どもにも、自由気ままになる方法はあるだろうか?
私が知る限り方法は2つ。
1つめは、大人と同じ。境界線をよく理解して、その中にいる限り安全なんだと安心している時。
おうちだとのびのびできる子がいるのはおうちのテリトリー内なら何がよくて何がよくないか、ある程度理解して自由になれるから。
もう1つは、ものすごく集中・没頭て、ああしたい、こうしたいと欲がどんどん前に出てきてる状態。「つかってもいいか」なんて聞いてる脳みその余裕がなくなる時。そういう時って、実はめっちゃくちゃ楽しんでるとき。
初めてワークショップに参加する子は特に、境界線を1日で理解するなんてできないから、集中して没頭してもらうことをいかにサポートするかが決め手になる。
「作品の完成がMABのワークショップの成功じゃない」「いかに集中・没頭できたかが成功したかどうか」だと常日頃思っていたのだけれど、それを見直すきっかけになる問いだった。
さらに、ぼんやり考えていたら、映画の「チャーリーとチョコレート工場」の一節を思い出した。
奇妙で魅力的なチョコレート工場の変わり者のオーナーのウィリー・ウォンカが、運くじに当たった子供たちを連れて工場見学ツアーをしている最中に言ったセリフ、とても面白い。
ウォンカ:工場のなかに牧草地があるなんて素敵でしょう?牧草を手にとってみて。さあどうぞ、おいしくって見た目もキレイなんですよ!
子ども:この牧草も食べられるってこと?
ウォンカ:この部屋にあるもの、全部食べられるんだよ、僕のことだって食べられる。でもね、子どもたち、人を食べるのは「カニバリズム」って言って、多くの社会では忌み嫌われてはいるけどね。ま、たのしんで!
このくらい自由な人と一緒にいたら、いやがおうにも自由になれちゃうなあ。
Commenti